買取王トミーです。
鬱病→自殺を図る→プロボクサー→FX→副業せどり→出張買取→会社売却、買取王トミー誕生までの話をまとめさせていただきました。
今回は僕がどんな人生を歩んできたかをブログに書きます。
巻物みたいに長いですがこれでも短くした方なんです。
長いので興味ない方は目次だけ読んでくださいw
買取王トミーの誕生
僕は1989年12月8日愛知県安城市に生まれた。数秘11。なんか運がいいらしい。
父親は大工、母は専業主婦のごく普通の家庭で生まれた。
幼い頃はスイミングスクールに3年ほど通い人生で全く使えない泳ぐのが早いという能力を手に入れた。
父親は酒が入ると暴れる人で家族は本当に仲良くない。
弟は3個下にいますが中学2年くらいで家出をしてそれから戻って来てません。
たかのり、、、
これ見たらTwitterから連絡くれ。
小学校時代
学生時代はクラスで言うお笑いキャラというポジションだった。
友達を笑わせるのが好きでクラスの面白い人のポジションを獲得
毎年発行される小学校の文集でクラスの面白い人ランキングでは6年間1位を記録。
Twitterで大喜利に挑戦していますが、ネットでは強敵が多く1位は取れそうにありません。
中学でいじめに遭う
中学はバスケ部に入りましたが、そこで人生初のいじめに遭います。
元々目立つのが好きだったのですが、そういう部分が災いしたのでしょう。
毎日みんなの前で同級からボコボコにされ全裸にされて竹刀で殴られたこともあります。
いじめにあった僕がいいますが、いじめは立ち振る舞いと誰とつるむかで回避できます。
中学3年でイケてるグループと仲良くなったり筋トレをすることによりいじめの被害を無くすことができました。
高校時代
そして高校から調子に乗ります。
高校ではいじめの無い生活が始まりまたクラスの人気者のポジションを獲得することに成功しました。
ごくせんが流行っていたので髪の毛を伸ばし雰囲気だけイケメン風にすることに成功。
地元で有名な偏差値の低いギリギリ公立の高校に通っていましたが14教科中13教科赤点という記録を打ち出しクラスで赤点先生という異名を獲得しました。
赤点じゃなかったのは国語だけ。
日本語はできるみたいです。
勉強が死ぬほど嫌いだったので父親に学校を辞めたいというとボコボコにされ、死ぬ気で勉強したらなんとか卒業できました。
社会人
高校から社会人になり就職した会社はトヨタの下請けの会社。
僕の地元は愛知県の三河なんですが、同じ高校から就職する人は大体トヨタ系に就職していました。
土日休みで給料がそこそこいい。土日が休みだからみんなと遊べる。
という単純な理由です。
工場の作業はライン作業という物で1畳分のスペースを1日中まわりよくわからない製品を2000個ほど毎日作っていました。
この作業で精神崩壊する人や自殺する人がいますが僕は平気でした。
1つの単純作業を行うことはこれで鍛えれたと思います。
バイクの事故で脾臓が破裂
社会人になってからも高校の時のように仕事が終わってから遊びまくっていました。
遊びが好きというよりかは遊んでいる俺ってイケてるだろ。って周りに見せたかっただけだと思います。
友達同士で集まった時は毎回女の子と遊んだ話。誰が一番遊んでるのか競い合ってました。
今思うと本当に無駄な競い合いだったと思っています。
ある日バイクを運転中に木に衝突し脾臓という臓器が破裂しました。
この事故は人生で一番痛かったです。
調子に乗っていた分バチが当たったのでしょう。
治療費を払うため激務
それから治療費が30万円ほどかかりましたが、遊びにお金を全て使っていたので父親に治療費を立て替えてもらいました。
その治療費を返済するために昼は工場、夜は居酒屋でバイトします。
この居酒屋でのバイトが悲劇の始まりでした。
居酒屋の上司は組織の統制を測るために1人ターゲットを決めてみんなの前で罵倒します。
するとスタッフ達は怒らせたら大変だということで組織をまとめる。
こんな人今までいませんでしたか?
このターゲットに僕は選ばれてしまったんです。
本当に少しのことで怒鳴られるようになり
何をやるか質問しても怒鳴られる。
質問しなくてもミスが増えて怒鳴られる。
そんな毎日を送っていると精神的におかしくなりました。
鬱病になる
↓こちらは会社に張り出される写真で鬱病真っ只中の写真になります。顔死んでます。
居酒屋でも毎日のように怒鳴られていましたが、メインの工場の仕事でもミスが増えて怒られることが多くなっていました。
毎日怒鳴られるのにミスもどんどん増えていく。
すると僕に異変が起こり始めた
夜眠れなくなり、誰とも会いたくなくなった、テレビを見ても笑えない
全てのことが憂鬱になり友達との遊びの予定が入っていていてもその日が近づくとどんどん気分が重くなる
友達と遊ぶ時にムードメーカーだった僕は集まりで陽気に振る舞うのがとても嫌になっていました。
集団で陽気に振る舞っている人間ほど意外と闇を抱えていたり傷つきやすいことをこの記事を読んだ方には覚えておいてほしいです。
動く、食事を食べる、歩くそれくらいのこともしんどくなってきたので症状を説明しに精神科に行くことに。
診断結果は鬱病。
精神科の待合室では突然叫びだす人や怒鳴り始める人。
明らかに精神がおかしい人の仲間入りをしたんだと思い、待合室で涙したのを今でも覚えています。
精神安定剤を処方してもらいました。
怒った時に飲む薬、悲しい時に飲む薬、眠りたい時に飲む薬。
精神を薬でコントロールしなければいけない状態になっていました。
毎日薬で精神をコントロールしながらの生活を送っていたが、その薬の効果を打ち消すくらい居酒屋のパワハラは凄かった。
2週間くらい経って居酒屋を無断欠勤し連絡を入れずに飛んだ。
もう体が重くて職場に向かえなかった。
そしてメインの工場も鬱病で有給を使わせてもらった。
そこから毎日なんの意味も無く天井を見上げるだけの生活。
生きてる意味は無いと思った。
自殺を図る
工場の仕事は有給消化だったので行かないといけないくらいなら死のうと思い飛び降りようとしました。
マンションの最上階の柵を跨いで下を見て飛び降りようと思った。
しかし怖くてできない。
死にたいって思っても実際やると本当に怖いんだなとこの時実感。
飛び降りができずにおそらく20分ほど経つと
「何やってるんだ!」
40代くらいの男性が駆けつけて柵から引き揚げてくれました。
エレベーターで下まで送ってくれる時に僕は泣き崩れていた。
死ぬこともできないのか、、、。
それからまた天井を見る生活に、、。
一筋の光
電話が鳴った
プロボクサーになった友達から「明日A君がボクシングジム体験に来るけどお前も来るか?」
この電話が僕の人生を大きく変えることになる。
天井を見るだけの生活だったけれど何かしなければと思っていたので行くことに。
始めていったボクシングジムは別世界だった。
思いっきり殴り合う男達、こんなことは到底できないが別世界に足を踏み込まないと自分が変われない。
そう思いその日に入会を決めた。
会社に行かなければいけないのは苦痛で体が重かったが、自分で決めた場所に行くのはなぜか体が軽く感じた。
それから毎日ボクシングジムに行って実践練習することで自分に自信が持てた。
工場の仕事にも行けるようになった。
プロボクサーになる
毎日仕事が終わった後ボクシングジムに通うようになった。
プロを目指していたわけじゃないが、行かなくなるとまた鬱病になるのが怖かった。
週に6日も通えばどんなセンス無い人間でも強くなる。
元々いじられキャラで話かけやすかったのか
ジムの先輩からもいじられ、よくスパーリングをお願いしてもらえるようになった
スパーリングとはグローブとヘッドギアをつけて本気で殴り合う練習だ
始めたての僕はもちろんボコボコにされる。
いつも出血しながら家に帰った。
その時に頭をよぎるのは飲食店の上司の憎い顔だ
もう寝たきりの生活に戻りたくはないあの上司覚えてろよ
そんな気持ちで毎回スパーリングを断らずに受けていったら僕は強くなっていた。
半年後にはプロボクサーを互角にスパーリングできるようになった。
そんな時ジムの会長から「プロテスト受けてみるか?」の一言。
僕の直感で何かが変わる気がした。
即答で受けますと回答。
プロテストを合格し僕はプロボクサーになった。
プロボクサーの生活
プロボクサーになり工場で働きながら毎日ボクシングジムに足を運んだ。
■朝は5時半に起きてロードワーク
■7時に会社に向かう
■17時に会社が終わりボクシングジム
■24時に寝て朝はロードワークのために5時半に起きる
かなりハードは生活だったが本当に楽しかった。
仲間達と目標を語ったり夢を語ったり
仲間の試合では感動して涙を流すこともあった。
階級はフライ級(リミット50.8キロ)
通常の体重は61キロあったので3週間で10キロ近い減量だった。
この経験のお陰で後に資金ショートした時の食費を削ることができた。
プロボクサー引退
プロボクサーになったもののプロの世界は甘くはなかった。
1試合のファイトマネーは4万円、地元開催でチケットが売れた時でも6万円くらい。
年齢は26歳で若かったが、プロでダメになった後の人生に不安を感じ新人王トーナメントに出場。
プロボクサーの新人が出てくるトーナメントで優勝すれば日本ランキングに入りランカーになれる。
このトーナメントに出場し優勝したら大阪の名門ジムに移籍して世界チャンピオンを目指す。
優勝できなかったら引退しようと決意。
結果は途中で敗退。優勝できなかった。
僕はボクシングを引退することに、、、。
会社を立ち上げることを決意、FXを始める
プロボクサーを引退し毎日工場に行く生活に戻る。
毎日7時に起きて会社に行きラジオ体操をして1畳分のスペースをぐるぐる回りよくわからないパーツを作る。
仕事の休憩所に行くと毎回会社の悪口をみんなで話す。
昨日のテレビの話。「なんか面白いことないかな」が口癖の上司
夢や目標を語っていたプロボクサー達と会話していたせいでこの環境に疑問を感じ始めた。
1畳分のスペースを回りながら横を見ると死んだ顔の同僚。
”ここで終わりたくない”
そんな思いが出てきた。みんなが夢や目標を語れる会社を俺が作ってやる。
仕事中に起業を決意した。
起業を決意してから仕事中に会社を立ち上げた自分を思い浮かべるだけでワクワクした。
それから僕は考えた
会社を立ち上げるにはどうしたらいいんだろう。
↓↓ネットで調べてみるとお金がかかるらしい。
↓↓お金を稼がないといけない。
↓↓お金の稼ぎ方をネットで調べる
↓↓お金 稼ぎ方
↓↓一番上に出てきたのがFX
FXを始めることにした。
資金ショート
FXを始めるのにやり方がわからなかったのでやり方をしっている友人に話を聞きにいった。
色々教えてくれたが、結局教えるのには金が必要ということで40万円の金を支払った。
これが人生初のコンサル。内容は今思えば1000円の本に書いてあるような内容だった。
60万円の軍資金で始めるもすぐに資金ショートしてしまった。
資金ショートの原因は利確が早く損切りが遅いこと。
FXやりたい人はチャートに感情を入れないようにしましょう。
経験者は語る。
家にある不用品を売って生活する
お金が無くなったので家にある不用品を売って生活するしかなくなった。
腕時計、ゲームソフト、漫画。
全て売り売るものが無くなったので家にある捨てる物を手当たり次第に出品してみた。
すると意外なものが売れることがわかった。
曲が入った状態のMDのカセットだ。
これが売れた時は衝撃を受けた。こんなものが売れるのか、、、。
え、、。これハードオフのゴミみたいなのが置いてある所から買って、ヤフオク出したら利益でるんじゃない!?
ふと思い次の日にハードオフに行ったがMDカセットは無かった。
どうせハードオフに来たんだから何か安い物を買ってヤフオクに出してみよう。
店内でネットを使い調べてみるとこれは”せどり”という行為らしい。
これが人生初めてのせどり。
7月にせどりを始める
それからフェイスブックでせどりと調べるとせどりのグループがあったので入ることに
次の週に懇親会があるというので行ってみることにした。
懇親会で同じ空気を持つ人とよく話して意気投合した。
月に売り上げが200万円もあるらしい。
僕は1週間で5000円ほどしか売り上げが無かった。
どうやって売っているか聞くとAmazonという販路を使って売っているらしい。
別日に仕入れに同行させてもらい衝撃を受けた。
新品せどりをしている人でケーズデンキ、ドン・キホーテでどんどん利益商品をカゴにいれていく。
仕入れの後一緒にご飯に行きその人のコンサルを受けることにした。
9月に退職届を出し12月に月商600万円を出し退職。
コンサルを受けてすぐに7月は月商20万円、8月は月商60万円とボクシングで培った行動力で月商を伸ばしていった。
そこで12月で会社を辞めることを決意した。
”お前じゃ無理だよ、どうせダメになって戻ってくる”
せどりを始めて2ヵ月後に退職届を出した。その時上司に言われた言葉。
12月に月商600万円を叩きだしこの退職届の言葉通りに起業した。
食べた物で体はつくられる。聴いた言葉で心はつくられる。言った言葉で未来はつくられる。
つくりたい未来は発信していきましょう。
僕にもできたんであなたにもできます。
夢の専業せどらー
会社を辞めてから車中泊をしながらせどりをしていました。
始めて入った平日の温泉を昨日のことのように覚えています。
「この時間みんなラジオ体操してるんだ。」
平日の朝の温泉には僕しかいません。
自由を手にした。そんな気分でした。
しかし専業で2週間せどりのみをやっていると副業の時のようなハングリー精神が無くなり
店舗せどりをサボりだすようになります。
店舗で1日ビームを打つ生活にやりがいを感じなくなりました。
こんなこと一生やっててもしょうがないな、、、。
よし、友達誘って組織化しよう。
組織を大きくして資金ショート
組織を作るために学生時代から仲のいい友達3人を社員に誘いました。
3人が提示した給料は36万円
自信満々の僕は全員雇うから任せろ!!
といって誘いましたが社員で来たのは結局1人。
あと仕入れをするアルバイト2人と出品をするアルバイト3人を雇いすぐに組織化しました。
しかし、自分が当たり前にやっている仕入れを教えても上達していきません。
今まで店舗せどりで高く売れそう、売れなさそう。というのを感覚で行っていた僕が一般の人に仕事を教えるのは難しかったです。
仕入れ部隊の仕入れは毎回赤字でその赤字分を僕1名で補いきれず毎月口座の残高が減っていきました。
せどりをやっている人で気をつけてほしいのは在庫額。
ツールを使って粗利を出すとかなり利益は出ているように見えますが、在庫額を考えないと資金は減っていきます。
粗利が出ているからと人を雇うと人件費で全て消えていきます。
そして数か月後資金ショート。
会社を辞めて来てくれた友人を解雇するのは本当に辛かったです。
今でもその友人は笑い話にして僕と仲良くしてくれているので感謝しかないです。
最後の友人の給料は口座の残高が無く消費者金融で借りてお支払いしました。
本当にごめん。
このままだとダメだ。新しいことを探さないといけない。
そう思い、またせどりの懇親会に参加しました。
出張買取に出会う
せどりの懇親会で色々な人の話を聞いてみてもどうもパっとしない。
その中に人目を惹くハットを被った男性が。話かけてみることに
「なんのせどりしてるんですか?」と僕が尋ねると
「出張買取だからせどりじゃないよ」とその男性が答えた。
これが出張買取の師匠との出逢い
詳しく聞くと出張型のリサイクルショップで仕入れ値を全て自分で決めれるので全てが利益らしい。
これだ!と直感で思い別日に出張買取の現場に行かせてもらった。
現場は衝撃だった、、、。これ売れるのあるの?と言いたくなるような物しか無かった。
するとその師匠は「これも買取できます。」「これもいけますよ」
と次々にお客様から品物を引き出し買取していった。
買取が終わった後に売値を見せてもらうとびっくり。
■500円→10000円
■100円→5000円
など店舗ではありえないような利益率の商品が並んでいた。
これならいける。そう直感で感じてすぐに消費者金融で借入をして師匠のコンサルを受けることにした。
出張買取開始
出張買取を開始したが始めは仕事が無かった。
仕事が無い日は中のいい工務店の社長の元で建設現場で働いた。
砂利を運んだり草刈りをしたり。
どれだけ暇でもせどりやらなかった。出張買取に賭ける思いがあったから。
ある日事務仕事をして欲しいと工務店の社長に頼まれて仕事が無かったので事務所に行った。
そこで衝撃を受けることになる。
「なんの仕事すればいいですか?」と僕が尋ねると
「この80万円の見積110万円に書き換えといて」
、、、、?
当時の僕にはわけがわからなかった。
建設業ではこれが当たり前で下請けから上がってきた見積書を上乗せして出す。
現場の段取りを組むのが利益につながる。
段取りを組むことで利益がでるんです。
「富田君も出張買取だけやってたらダメだよ。Panasonicも最初は電球しか売ってなかったけど他の商品売ることで利益出してるんだから」
この言葉を受けて僕は出張買取の現場でお客様からこんなことできる?
といわれた仕事は全て受けた。
やったことの無い仕事はYouTubeを現場で見ながら行ったこともある。
組織化に成功
大きい案件を取ることによって1件辺りの売り上げが倍増した。
買取でわからないことも師匠のフォローのお陰ですぐに組織化に成功した。
1年でトラック5台、営業車1台、社員、スタッフ23名の組織を作ることができた。
組織化ができたのも出張買取の利益率が良かったからだと思う。
人に感謝されながら利益を出し、仕事とはどういう物かを出張買取から学んだ気がしました。
その後、現在
それから地元に根付いて仕事をするんじゃなくて世界を跨いでビジネスがしたいと思った僕は出張買取の会社を売却して。
世界1周の旅に出ることを決めた。
しかしコロナウィルスで現在は大阪に住んでいます。
コロナが落ち着いたら海外に出て日本と海外を跨いでビジネスがしたいと考えています。
情報発信はその為に行っています。
僕が海外から輸出した物を販売できる人。
海外に僕に物を送れる人と繋がれることを期待しています。
大分長くなってしまいましたが、これでもかなり簡潔にまとめた方です。
普段情報発信ではいいことばかり書いていますが苦労も勿論あります。
鬱病になったことも自殺しようと思ったことも今ではいい思い出です。
失敗から学ぶことは非常に多いです。
僕のダメな人間性を分かった上で日本と海外を跨いでビジネスができる方が現れるのを期待しています。
長い文章お付き合い頂いてありがとうございました。
買取王トミー
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